足跡_神様について

旭那由多の歌声の部分を背負っている生身の人間がこの世界に存在する、という事実にだいたいいつも苛まれている。特に悪い意味ではなく。私は人間は神様にしないほうが無難かなというくらいの気持ちで生きています。小説版とかに顕著でしたが、那由多さんの神性や唯一性、絶対性(神を唯一とするなら同じことかもしれない)が強調されるたびに、これを生身の人間が背負うの?って怯えている。可哀想とかすごいとかじゃなくて大人達によるそのような冷静な判断がありうるのだなと、誇大広告にしない自信があるのだなと、それはコンテンツのプロデュースへの自信だったり、見つけた逸材に対する自信だったりするのだろうが、本当に嫌味ではなく感嘆の気持ちがある。とんでもない楽しくて思い切ったことを思いついたものだなあ。実際には楽曲を作る人達がいて、文脈や言葉や物語の補強があって、魅せ方だって人の手や恣意的なものが挟まるけど、最後にはその身ひとつだし、実際にそうじゃなくてもその身ひとつくらいの覚悟はないとできないことなんだろうと思って、それはつまり、どういうことなんだろう、というのが、ずっとわからないままです。楽しい。神様を作るって何だろう。演じるのではなく、演じながらも同時により本質的に「ならなければ」いけないような感覚、これはこの作品の妙なんでしょうか。人間らしさや生活の部分は物語が背負うから、声やステージの神性だけが研ぎ澄まされて差し出される、身体にまとわりついている、ような。私はあの人のことをよく知っている、これは、国民的タレントを毎日テレビで見て親しみを覚えるようなそういう錯覚的な知っているだけど、そういう人が、ステージの上でマイクの前で、なんだかこれまで生きててそんなに見たことがないようなカリスマと神性の描写の体現者となるというのが、まだうまく飲み込めていなくて、たくさん見たらわかるようになるのかなあ。MANIFESTOを初めて聴いた時にこの人は誰なんだろうなとわかり切ったことを不思議に思っていたけど、結局今もそこから進んでいないのかもしれない。それがお芝居で物語で世界を作ることなんだろうけど、たくさんの人の手の加わった「作品」ということなんだろうけど、文脈の読み込みと納得だけでは回収しきれないそこにあるもののことをずっと考えている。バンドとしては追いかけるという言い方をよくされている気がするけれど、同時に声帯は定義づける性質のものでもあると思うので、そのあわいが、何か特別なものだなあと思っていたりします。