4年ぶりに見たMiracle Gift ParadeにAXIAを見出す

精神的な極度の緊張と弛緩を伴うイベントをこなしたらぐったりしてしまい、充足感と寂しさとままならなさに身を包み、ひさしぶりに家に帰りたくないという気分になったので、乗換駅でコーヒーを飲みながら、書こうとしていた話を書き起こしています。今月は私基準であまり望ましくないボリュームで、対外的なタスクを詰め込んでしまった気がしていて、楽しかったししかたがなかったのだけど反省しています。自分の肉体も脳内も余すところなく社会に開陳してしまったような気分だ~~今後の方針は諸々定まってきたので、養生します。(ここまで日記)

先日、長く休止していたMiracle Gift Paradeが再開してからはじめてサンリオピューロランドに行ってきました。結構前から常設のパレードで、私が上京して初めてピューロランドを訪れた頃にはやっていたのですが、コロナでしばらく休止していました。休止前の私はまだ学生だったので、それ以来の鑑賞になりました。

※以下、パレード内容と劇場版アルゴナビスAXIA(!?)のネタバレを含みます※

突如現れて「光」を奪ってしまう闇の女王三姉妹に対し、憤って戦おうとする仲間たちをキティさんが制止して、「かわいい」「おもいやり」「なかよく」の心を説き、女王達にもその心があるはず!絶対に仲良くなれる!と押し切って三姉妹が浄化(?)される感じのストーリーですが、学生時代の私はこれを見て「企業理念だな~面白い(interesting)な~」「そういう思想なのはわかるけど、私は相容れないな」という感想を抱いていたのを覚えています。(というか、ひさしぶりに見たら思い出した)

結果オーライだけど、人の内心を決めつけるのも、自分の思想が万人を助けると思うのも、あかんやろ!!と思っていたんだよね。当時の私は今ほど人の心がなかったので、とにかくそういう方向の正しさや自他の境界、干渉などについて、とても潔癖だったなと思います。それが悪いことだとは全く思っていないし、今も平均よりはそうなのだと思うけれど……。

で、ひさしぶりに同じパレードを見て、抱いた感想は「これ、AXIAで見たな……」でした。闇の女王にあなたたちにも同じ心があるはずだよと説いて寄り添うキティさんの姿が、那由多くんは仲間や音楽を信じているから素晴らしい曲を作れるのだと説く七星蓮さんと重なりました。

私は七星蓮さんのことを、常々尖った人だなあと思っています。ダブエスで紫夕くんに対してもそうでしたが、「きみの音楽は素晴らしいからあなたも素晴らしい人間のはず」という思想でことあるごとに突っ走っていて、それを疑問に思う機会も特になくて。もちろんそんな発想は絶対に間違っているし作品としても蓮くんのそれが正しいこととはされていなくて、ただ「蓮くんはそう考える」ということが淡々と描写され続けている、そんな蓮くんが主人公なことが、不思議で面白いなあというのが、この作品の好きなところのひとつです。(少し話が逸れますが、もし蓮くんの思想が作品世界の「正義」とされていたら、絶対好きになっていなかった。正義ではないけど、正しくはないけど、とはいえ諦めているわけでもなくひかりのひとつとして配置されているところが、好きです)

蓮くんがあなたは素敵な人間だよ!!と思う根拠は「作る音楽が素晴らしいから」ですが、その条件がキティさんは「みんな」であるだけで、荒んだ他人に対して一方的に良心の存在を信じ、否定をそんなはずはないと断じて、本人にぶつけて、結果的にその言葉が相手に響いて救っている様子が、似ているなあと思いました。そして、似ているなあと思って、学生の頃と比べてそういう描写の受け取り方が変わっていることにも気づいた。

前提として、自分や他人のことを、裏切られることへの予防線で「どうせ」と諦めて、希望を光を疎むことは、普通に苦しい。苦しいので、ミラギフ世界観でいう「光」と「闇」は背中合わせの等価な正義ではなくて、「できるんなら光の方がそりゃいい」というものであると思うんだよね。何当たり前のことを言ってるんだという話だが、「それぞれの考え・正義」というものに慎重になり、他人への干渉は暴力だと思い、そういう理屈だけで物語や世界を見ていると、なんと忘れるんですよ、そういうことを……(サンプル1)結局、前向きでやさしく仲良くしている方が、よい。個々人の善悪の話ではなく、ただ、世界のエネルギーの方向は、理屈抜きにそちらの方向に流れていて然るべきだと思うのだよな。傷ついて極端な考えをしている人を「それもまたひとつの正義」などと言っている場合ではなく、3つのハートを思い出してもらった方が本人も楽になれる。ことが多い。

もちろん賛否あるとは思うけどそうであるとした時に、間違っているとしても、あなたも素晴らしい心を持っているはずだよ!!絶対にそうだよ!!と他人が働きかけることは、そう言ってもらえるなら自分を信じてみようかなと前を向く後押しになるのかな、と思った。言われてることが正しいかは置いておいて、最初の1マスをそうやって背中押されることでなんとか方向転換できるとか、進めるとか、そういうところがあって、逆にそういう乱暴なことをしなければにっちもさっちもいかない、ゼロイチの1歩が必要で、それは正しさではまかなえないという状況は、ありうるのだろうな~と……。

で、それはそれでいいとするとまた自分の中に疑問が出てきて……キティさんや蓮さん(謎の並び)のように、本人の性格とか考え方への観察の結果には直接基づいてない雑な根拠(「誰だってきっと」とか「素晴らしい作品を作るから」とか)によってその人の心根の美しさを断ずることが果たして「その人を信じている」ことになるのか?というところに疑問が残った。信じてくれる人の言葉で救われたという現象に見えるけど、これって「信じてる」か??この人達が闇の女王や那由多くん紫夕くん(謎の並び)に与えてるものって、何??

と、考えて管を巻いてる中で至った結論としては、裏切られたり傷ついたりした過去によって自分で信じられなくなってしまった「たくさんの人がそう願うように、あなたも光の方向のエネルギーに沿って幸せになれるはずの尊いいのちのひとつであるはずだ、あなたは苦しまなければいけないわけではない」ということへの「信じている」なのかなあ、と思った。本人が傷ついて捨ててしまった希望のことを、私はまだ信じていますよ、というメッセージ。だから、あなたは素晴らしい心を持っているはず!的なことを口で言っているとしても、相手の人間性が実際のところどうなのかみたいな、言葉の内容のところはどうでもよくて、ただその「投げかけの存在そのもの」がつまるところ、「私はあなたのことが大切で、ひとりの人間として尊重していて、諦めていません」という寄り添いを意味するのだろう、言う方はそういうつもりなく思想に基づいて衝動的に動いてるとしても、少なくとも受けとった方にとってはそういう愛と許しの意味を持つのだろうなと、今は考えている。だから光なのだろうなと。

実際にキティさんや蓮さんのように人とコミュニケーションをとって物語で描かれるようにうまくいくかはわからないけど、「それが物語で描かれている」ということからは私は、上記のようなことを受け取りました。(2024年3月現在)

AXIAを見ていて蓮くんと那由多くんの会話シーンのことが微妙にわからないまま1年くらい経ったけど、ようやく何かが腑に落ちた気がして、すっきりした気持ちです。まだ味がする、劇場版アルゴナビスAXIA……。一生そうなるんだろうなあ。そして、同じコンテンツに時が経って触れ直して大きく捉え方が変わって気づきを得るという体験をMiracle Gift Paradeで初めてして衝撃的だったので、歳を重ねて性格的に丸くなり、アルゴナビスに触れて「信じる」「言葉にする」についてたくさん考えた私で色々なものに触れ直してみたいな~と思った出来事でした。