4年ぶりに見たMiracle Gift ParadeにAXIAを見出す

精神的な極度の緊張と弛緩を伴うイベントをこなしたらぐったりしてしまい、充足感と寂しさとままならなさに身を包み、ひさしぶりに家に帰りたくないという気分になったので、乗換駅でコーヒーを飲みながら、書こうとしていた話を書き起こしています。今月は私基準であまり望ましくないボリュームで、対外的なタスクを詰め込んでしまった気がしていて、楽しかったししかたがなかったのだけど反省しています。自分の肉体も脳内も余すところなく社会に開陳してしまったような気分だ~~今後の方針は諸々定まってきたので、養生します。(ここまで日記)

先日、長く休止していたMiracle Gift Paradeが再開してからはじめてサンリオピューロランドに行ってきました。結構前から常設のパレードで、私が上京して初めてピューロランドを訪れた頃にはやっていたのですが、コロナでしばらく休止していました。休止前の私はまだ学生だったので、それ以来の鑑賞になりました。

※以下、パレード内容と劇場版アルゴナビスAXIA(!?)のネタバレを含みます※

突如現れて「光」を奪ってしまう闇の女王三姉妹に対し、憤って戦おうとする仲間たちをキティさんが制止して、「かわいい」「おもいやり」「なかよく」の心を説き、女王達にもその心があるはず!絶対に仲良くなれる!と押し切って三姉妹が浄化(?)される感じのストーリーですが、学生時代の私はこれを見て「企業理念だな~面白い(interesting)な~」「そういう思想なのはわかるけど、私は相容れないな」という感想を抱いていたのを覚えています。(というか、ひさしぶりに見たら思い出した)

結果オーライだけど、人の内心を決めつけるのも、自分の思想が万人を助けると思うのも、あかんやろ!!と思っていたんだよね。当時の私は今ほど人の心がなかったので、とにかくそういう方向の正しさや自他の境界、干渉などについて、とても潔癖だったなと思います。それが悪いことだとは全く思っていないし、今も平均よりはそうなのだと思うけれど……。

で、ひさしぶりに同じパレードを見て、抱いた感想は「これ、AXIAで見たな……」でした。闇の女王にあなたたちにも同じ心があるはずだよと説いて寄り添うキティさんの姿が、那由多くんは仲間や音楽を信じているから素晴らしい曲を作れるのだと説く七星蓮さんと重なりました。

私は七星蓮さんのことを、常々尖った人だなあと思っています。ダブエスで紫夕くんに対してもそうでしたが、「きみの音楽は素晴らしいからあなたも素晴らしい人間のはず」という思想でことあるごとに突っ走っていて、それを疑問に思う機会も特になくて。もちろんそんな発想は絶対に間違っているし作品としても蓮くんのそれが正しいこととはされていなくて、ただ「蓮くんはそう考える」ということが淡々と描写され続けている、そんな蓮くんが主人公なことが、不思議で面白いなあというのが、この作品の好きなところのひとつです。(少し話が逸れますが、もし蓮くんの思想が作品世界の「正義」とされていたら、絶対好きになっていなかった。正義ではないけど、正しくはないけど、とはいえ諦めているわけでもなくひかりのひとつとして配置されているところが、好きです)

蓮くんがあなたは素敵な人間だよ!!と思う根拠は「作る音楽が素晴らしいから」ですが、その条件がキティさんは「みんな」であるだけで、荒んだ他人に対して一方的に良心の存在を信じ、否定をそんなはずはないと断じて、本人にぶつけて、結果的にその言葉が相手に響いて救っている様子が、似ているなあと思いました。そして、似ているなあと思って、学生の頃と比べてそういう描写の受け取り方が変わっていることにも気づいた。

前提として、自分や他人のことを、裏切られることへの予防線で「どうせ」と諦めて、希望を光を疎むことは、普通に苦しい。苦しいので、ミラギフ世界観でいう「光」と「闇」は背中合わせの等価な正義ではなくて、「できるんなら光の方がそりゃいい」というものであると思うんだよね。何当たり前のことを言ってるんだという話だが、「それぞれの考え・正義」というものに慎重になり、他人への干渉は暴力だと思い、そういう理屈だけで物語や世界を見ていると、なんと忘れるんですよ、そういうことを……(サンプル1)結局、前向きでやさしく仲良くしている方が、よい。個々人の善悪の話ではなく、ただ、世界のエネルギーの方向は、理屈抜きにそちらの方向に流れていて然るべきだと思うのだよな。傷ついて極端な考えをしている人を「それもまたひとつの正義」などと言っている場合ではなく、3つのハートを思い出してもらった方が本人も楽になれる。ことが多い。

もちろん賛否あるとは思うけどそうであるとした時に、間違っているとしても、あなたも素晴らしい心を持っているはずだよ!!絶対にそうだよ!!と他人が働きかけることは、そう言ってもらえるなら自分を信じてみようかなと前を向く後押しになるのかな、と思った。言われてることが正しいかは置いておいて、最初の1マスをそうやって背中押されることでなんとか方向転換できるとか、進めるとか、そういうところがあって、逆にそういう乱暴なことをしなければにっちもさっちもいかない、ゼロイチの1歩が必要で、それは正しさではまかなえないという状況は、ありうるのだろうな~と……。

で、それはそれでいいとするとまた自分の中に疑問が出てきて……キティさんや蓮さん(謎の並び)のように、本人の性格とか考え方への観察の結果には直接基づいてない雑な根拠(「誰だってきっと」とか「素晴らしい作品を作るから」とか)によってその人の心根の美しさを断ずることが果たして「その人を信じている」ことになるのか?というところに疑問が残った。信じてくれる人の言葉で救われたという現象に見えるけど、これって「信じてる」か??この人達が闇の女王や那由多くん紫夕くん(謎の並び)に与えてるものって、何??

と、考えて管を巻いてる中で至った結論としては、裏切られたり傷ついたりした過去によって自分で信じられなくなってしまった「たくさんの人がそう願うように、あなたも光の方向のエネルギーに沿って幸せになれるはずの尊いいのちのひとつであるはずだ、あなたは苦しまなければいけないわけではない」ということへの「信じている」なのかなあ、と思った。本人が傷ついて捨ててしまった希望のことを、私はまだ信じていますよ、というメッセージ。だから、あなたは素晴らしい心を持っているはず!的なことを口で言っているとしても、相手の人間性が実際のところどうなのかみたいな、言葉の内容のところはどうでもよくて、ただその「投げかけの存在そのもの」がつまるところ、「私はあなたのことが大切で、ひとりの人間として尊重していて、諦めていません」という寄り添いを意味するのだろう、言う方はそういうつもりなく思想に基づいて衝動的に動いてるとしても、少なくとも受けとった方にとってはそういう愛と許しの意味を持つのだろうなと、今は考えている。だから光なのだろうなと。

実際にキティさんや蓮さんのように人とコミュニケーションをとって物語で描かれるようにうまくいくかはわからないけど、「それが物語で描かれている」ということからは私は、上記のようなことを受け取りました。(2024年3月現在)

AXIAを見ていて蓮くんと那由多くんの会話シーンのことが微妙にわからないまま1年くらい経ったけど、ようやく何かが腑に落ちた気がして、すっきりした気持ちです。まだ味がする、劇場版アルゴナビスAXIA……。一生そうなるんだろうなあ。そして、同じコンテンツに時が経って触れ直して大きく捉え方が変わって気づきを得るという体験をMiracle Gift Paradeで初めてして衝撃的だったので、歳を重ねて性格的に丸くなり、アルゴナビスに触れて「信じる」「言葉にする」についてたくさん考えた私で色々なものに触れ直してみたいな~と思った出来事でした。

「εpsilonΦ LIVE 2024 - Overlord -」に行ってきた

argo-bdp.com

行ってきました。パソコンで仕事をしているせいなのか何なのかスマホで文章を書けなくなってしまったのでリハビリを試みてスマホで書いています。

昨日は私自身もとある本番があり、でもどうしてもεpsilonφさんのことが見たくて、上半身はコテコテのステージメイクと衣装のまま、打ち上げを途中抜けして少し遅刻してソニックシティにたどり着きました。(近くの席の方申し訳なかったです)

そもそもこの日は他にも行こうか迷ったイベントを諦めていて、大宮に向かう上野東京ラインに乗りながらまったく私の人生だな……という気持ちになりました。私自身の生活や活動と友達、魅力的で興味をひかれるエンタメ、好きな人。(※「推し」という言葉を見ると「『推す』ことを対象への態度の軸としたことはないし、その言葉を対象の代名詞とすることは私にとって正確ではないのだが?」という厄介な気持ちになるので、様々な言い換えを検討していて、「好きな人」はそのひとつです)諦めたものに後ろ髪を引かれながら前の用事を途中で抜けて後ろの用事に遅刻しているの、欲深さに対する物理的な限界を見た気がする。

それでも、ひとまず昨日のところは欲深くなってよかったなあというのが素直な感想です。εpsilonφさんはダブエスの頃のストーリーが読み切れてなくて情報が抜けてしまってるんだけど、その上で感じたことを。

私は5バンドの中でεpsilonφさんの歌詞が最もわからなくて、歌詞がわからないためストーリーはともかくとして音楽やバンドの部分について他のこともよくわかってない、みたいな状態だったのですが、昨日ようやく「え、本当にめちゃくちゃで狂ってるな!?」ということがわかりました。(今更?)

音源からしてそうなので多分これまでも同じ演出だったかもしれないんだけど(思い出せない)、オルトロスの2番で歌う遥に絡みつく奏と、その横でパフォーマンス的な笑い方というより、ただ見て面白がってる様子で耳に残る嫌な高笑いをして、半笑いのまま自分のパートに入っていく紫夕くんをみて、その一瞬だけ全然違う世界に迷い込んでしまったみたいだった。その一瞬だけ演劇の世界にのみこまれたような、それと同時に彼らにとっての毒々しい生々しい露出すべきでない舞台裏のリアルでもあって。こんな狂騒を人前で繰り広げてるなら確かに、とても狂ってるんだな、と、単独ライブという場で世界観に没入してようやく理解することができました。わかってたんだけど、身体的にぴんときてなかったので、現地に行ってよかったなあと思った次第。

紫夕くんのすごいところは、承認欲求に雁字搦めになってそれでも強がってる人が、自分のそういうところを隠さず曲にできてしまうところだなと思います。遥くんもだが……。ぐちゃぐちゃなところ、悲痛な叫び、を容赦なくむき出しの歌にして露悪的ともとれるようなパフォーマンスをするけど、そうやって剥き出しにして作品の価値として供してしまうのを、他人のことだけでなく自分の心の弱いところ柔らかいところに対してすらできてしまうのだ、その冷徹すぎる気がする割り切りを作品作りにあたってできてしまう、それが彼の超越性のひとつの源であると理解しています。レゾンデートルの真に衝撃的なところは、その内容そのものでも曲調でもなく「それを歌にできてしまうこと」だと思う。もちろんそれは心からの慟哭でありながら、それを一旦材料にもできてしまうような、そういうところが紫夕くんにはあるような気がしています。あんな気持ちを抱えたあんな性格の人がそのまま見せたいわけがない部分を、それすらも出せてしまうこと……。生々しく剥き出しにすることを、計算高くメタの視点を持って、でもやはり生々しくやる、その対象は自他の区別なくεpsilonφであるならば、という感じが、すごいな~とスタッフさんの誰かが好きらしいオルトロス→光の悪魔→レゾンデートルを見ながら思っていた。

ライブ中の遥くんの慟哭や、紫夕くんの悦に浸った高笑いやすすり泣きって、どういう性質のものなんだろう。パフォーマンスでもなく、自然とそうなるものでもなく、個人的には「そういう激情を見せるために感情をコントロールして、本心からのそれらを見せつけている」という感じがして、自分達のリアルとして確かに存在している激情をそれを自分達の特色とするためステージ上でわざわざ呼び出して本気でのたうち回る、みたいな、なんて身を削ったショーなんだ……と思う。それをライブの度にやってるなら悪趣味すぎる。何かそう感じた根拠があるかというと特にないので全然違うのかもしれないけど。

イプシって中高生ファンが多いという設定だったと思うんだけど、それは単に同年代だからとかネット音楽的な文脈だけでなくて、承認欲求、愛されたい、厭世、執着、焦り……みたいな、若いほど上手くコントロールできなくて振り回されるあれこれが、あまりにも生々しいからだよなあと思う。つまりそれは、まあ同年代だからということなんだけど。

昨日のライブを見ていたら、最近マガツノートという作品のライブに行くようになって時折拝見しているV系のバンドの皆さんの音楽を思い出した。表向きの清潔な大人の社会では正しいとはされない汚さや苦しさや足掻きや諦めやちょっとおかしいところを、肯定してくれる場所というか。V系の方達のライブを見てると、ファントムみたいな世界観!ていうのもそうだけど、それ以上に思想のそういう癖みたいなものをすごく感じていて、もしかしたら偏った面しか見ていないのかもしれないけど。イプシもそういう面があるよな?と思いました。本当の同年代の意見を聞いてみたいね……。

あと楽器隊それぞれにかっちり立ち位置を与えられた遊ぶ余地のないセットがとても真っ正直な感じがして、音もまさにそういう感じで、ライブとしてとてもかっこよかったです。その中での紫夕くんと双子の演出の映えること……。これはフウライの時も思ったけど、1stライブはどうしてもそのバンドの概念そのものをドカン!という感じになるので、2回目以降の「今回ならではの色」とか変化や遊びも早く見てみたいな~という次第です。とっても楽しかった!また遊びに行きたいです。

マツキヨが楽しかった日記

短文投稿するSNSに連投するのも日記(小さい)にさっぱり書くのもなんだか違って言葉を尽くして残したい気分なので、書く。

私はあんまり、「生理用品の選択肢の狭さ」みたいなものに不自由さを感じたことがなくて、それは生理がある女性性の自分に対する抵抗感がそこまでなかったとか、それゆえに衛生用品がどのような見た目をしているかが気分を左右するほど深刻なことではなかったとか、そういうようなことが理由だと思う。これは自分の良いところでもあり悪いところでもあると思ってるけど、環境に対する適応とあきらめも早い。(あと、ピンクや花柄は、そういうデザインの衛生用品が好きってわけではないけどそういうもの自体は嫌いではなくて、だとしても押し付けられたらむかつくけど、とはいえそれと自分が結びつくことが耐えがたい苦痛をもたらすような、そういう嗜好や性質では、私はたまたまなかった)

そうはいってもみんなが私みたいな人間じゃないことはわかっているので、最近の選択肢を増やそうという流れ自体は当然良いものだと思っていて。ただ、そういう状況で自分が何を選ぶかと言えば、多分実家にいた頃から使っている、昔ながらのパッケージの商品だった。世の中で、選択肢が少なくて私はあまり感じないストレスや苦痛を感じている人がいる、この世には、「私も価値観の変化によっては感じる可能性が充分にあるそういう形の苦痛がある」ということを認識してしまった時、苦しいことが増えることが怖くて、私は特に気にしていないのだと思うために、何も考えずにかごに入れられる昔から使っていた商品を手に取っていたのだと思う。考えられたデザインの商品を手に取った時に、「私は苦しかったからそうしたのだ」と私が私に対して思い込んでしまうことが恐ろしくて忌避していた。そうしたらまたひとつ、世界に対して腹を立ててしまうので。怒ることは大事だと思っているけど、同時に自分が怒るのは最小限にしておきたいという気持ちがある。自己中心的なので、疲れるのは嫌だ。

そんなかなり拗れ切った考え方をしていたわけだけれど、今日はたまたま、ドラッグストアに行く予定をしていて、そしてたまたまストレスによる購買衝動が高まっていたので、愉快な買い物がしたいな、洗練されたデザインの生理用品とかを買ってみようかした、という気分になっていた。珍しく。購買衝動が高まった時、なるべくスーパーに行っておいしいものを買って備蓄しておくとか、文房具屋さんでいつか使うときめく文房具を買っておくとか、なるべく思い切り買い物した気分になれて、金銭的ダメージが少なく、かつその後の自分のためになる選択ができるよう心掛けているけど、たまたま今日はドラッグストアと生理用品にお鉢が回ってきたわけだ。

会社帰りにあるいちばん大きなマツキヨに寄って、水回りの商品やおむつとかが売っているあたりで探しても全然棚が見つからずキレそうになったが、よく探すとかなり入り口に近い場所に置いてあった。怒ってごめん、いい場所に置いてくれてたんだね……。デカいマツキヨだけあって、品ぞろえがとてもいい!見たことない商品がぼちぼちあって、ひねくれていた割に簡単にテンションが上がった。見たことないきれいなデザインやかわいいデザインのものがたくさんあることと、コットン素材の肌に優しいものが思っていたよりたくさん展開されていること、大手じゃなさそうなメーカーの商品があること、すべて新鮮だった。デカいマツキヨ、すごい(2回目)。購買衝動が高まっているのもあり、品出しをしようとスタンバっていた店員さんを立ち去らせてしまうくらい、めちゃくちゃ真剣に長考し、楽しく「買い物」をした(店員さんごめん)。で、ようやく、苦しいから逃れたいというだけでなく、苦しくなくても選択肢が多いならそりゃあ嬉しいな、プラスにしかならないな、と当たり前のことを思った。本当に、当たり前のことなのだけど、ただ考えているだけではぴんとこなかった。街に出なあかん……。

医療の力を借りて出血の量とかが落ち着いて、失敗しないことが分かっている商品をお守り的に買い続ける必要がなくなったからとかもあるけれど、まあ、それも含めて「好きに選べる」ということはとても開放感があった。衛生用品を楽しく選べる必要は別にないとは思うのだが、選べるならそれに越したことはない。そして、この「あったら楽しい」という彩りは、選べる必要は別にないなどと言っていられない、ないと苦しい人の叫びやあってほしい人の願いや、それを受けたメーカーの人達の使命感の上で、私が疲れるからとセーブしてしまう怒りも含んだ動きの上で、ようやく成り立ったもので、私はその恩恵にあずかっているのだということを、忘れないようにしたい。私も怒るべきものに怒れる人でありたいです。

生理用品の棚がある1列、他にもデリケートゾーン用のソープやらショーツやらストッキングやらなにやらずらっと並んでいて、結構圧巻だった。TENGAの会社の女性向けラインのirohaの商品がコスメのように並んでいて、店頭で見たのが初めてだったので、ああ、こういうところに並ぶためにこういう見た目なのかなあと腑に落ちた感じがした。(これについても、強い抵抗を覚えるタイプでなかったゆえに、むしろここまでコーティングしないといけないということのほうに、恐ろしさをこれまで感じていた)当たり前のようにお店に並んでいて、それが人前でもそこまで目を逸らしたくならないデザインをしていることに、なんだかとてもこちらを向いてもらえてる感じがして、嬉しくなった。今まで疑念を抱いていてごめんねの気持ちでソープを買いました。私の夏の肌治安を救ってくれ(先の話過ぎる)。

デカいマツキヨ本当にすごくて(3回目)、もちろんコスメも洗剤もデンタルケアも薬も何もかもたくさん売ってるし、グラノーラは安いし、テーマパークだった。なんで地方都市出身東京生活8年目で今更ドラッグストアにはしゃいでるんだ。ていうか大きいドラッグストアって都市にもそこそこ田舎にもあるし。グラノーラがあまりにも安かったので、とりあえずまた行きます。

GYROAXIA LIVE TOUR 2023 KICK-STARTを終えて、私とMANIFESTOの話

※これは私のために書いた私の日記と思い出と感傷であり、ツアーの感想ではありません。

 

そんなの関係なくもう大好きだからあえて必要ないだろうとあまり直視しないようにしていた感傷があるのだけど、ここは私の城だしいいかなということで、普段しない思い出話をしてみる。

 

多かれ少なかれみんなそうなのだと思うけど、あるいはきっと他にそういう曲があるのだと思うけど、他の曲と比べた時、MANIFESTOだけは思い入れの質が全く違っている。この曲の思い出にだけは、GYROAXIAを、那由多くんを、知らなかった私がいるからだ。

2019年の秋、はじめてこの曲を聴いた時に、この人は誰だろう、と現実味がなかったことを覚えている。知らないキャラクターを背負って、知らない声で知らない歌い方をしている(※当時の小笠原さんの歌唱のある役はほぼ王子様だったのである)のが、ほとんどこの世で初めての、人間の声が小笠原さんのものしか含まれていない表に出た音源だったような記憶。ソロキャラソンすらなかったのに全部俺!なの笑ってしまったな……。まあ、だから、何もピンときていないのに、ぼけっとしたままずーっと聴いていた。私の人生の中でもかなり変な感じの時期だった気がする。

なおこの数ヶ月後に、本人に対し、知らん声でびっくりしたけど那由多くんの歌もすごく好きみたいなことを私は面と向かって言い放ったのだけど、正直すぎると思う。ただ、その時には少なくとも那由多くんの歌は好きだったんだなあ、ということを、己の失礼を思い出すことにより思い出せるので、言っといてよかったなと思う(壁打ちメモみたいな役立て方をするんじゃない)。

こんなこと(ナビステの感想などを読もう)になっている今にして思えば笑い話なんだけど、好きな役者がこの会社のリアルバンドのコンテンツでボーカルになってしまった、ということに対して、当時はわくわくすると同時にかなり思い詰めていた。彼の仕事に割けるリソースの中でも相当な分量をこのコンテンツに持っていかれること、世間の人はそのうち彼を「GYROAXIAのボーカル」というイメージを通して見るようになるだろうこと(声優オタク私、当時そういうのが本当に嫌だった、というか、私は彼がそれを覚悟してオーディションを受けたならよいと思っていたけど、そういうのをバカにしたり過度に悲観したがる声優オタクがいることを知っていたので、それが嫌だった)、はまれてもはまれなくても私のオタク生活のリソースも否応なくここに割かざるをえなくなること、それらに耐えられないならもうこの人を観察することを諦めた方がいいのだろう……ということをぐるぐる考えて、結局やってやらあ!となったわけなんだけど、しかし今思うとほんとに無駄な覚悟だったな。若い私に笑われてしまう。若い私へ、普通にはまってるよ……。

2019年の冬、シークレットゲストでバンドのお披露目となったArgonavisのライブを、出るだろうなと目論見をつけて見に行った。TDCホールの第2バルコニーに入って、入って始まってから私はバンドのライブ、というか、音楽を楽しむことを主目的にしたライブ(キャラソンコンテンツやアイドルではなく)に行くのが初めてだと気が付いた。これは別の話だけれど、だから、私の音楽の親のひとつはArgonavisさんであり、伊藤昌弘さんなので、感謝しています。閑話休題

細かいことは思い出せないのだけど、ステージに出てきたGYROAXIAを見て、小笠原さんをこんなに遠くから見られるなんてということに驚いていた。遠くで見るためには遠くにも席があるような場所に立ってもらわないといけないのだから、近くで見るより遠くで見ることの方が難しいのである……

隣の席がオレンジのキンブレを持ったお姉さんだったんだけど、私と同じくらい5人の姿に感極まって興奮してくれていて大変心強かったし、あの時のArgonavisのライブはレギュレーションが一般女性向けコンテンツと同じくらい厳しかった気がするんだけど(ペンライト肩までみたいな)なんか割と……会場全体が無法地帯となっていて、よいことではないのだが、でもここにいるひとたちは新しい歌を好きになって、コンテンツのこれからに期待して、こんなに盛りあがっているんだなあ、と思うとあまりにも正の方向のエネルギーに溢れていて感動した。こんなにいいお披露目ってないよ。

で、これはいつもしてる話だけど、そこでライブをする旭那由多さんというのを目の当たりにして、旭那由多さんが観客に優しい(?)ことに驚いた。そもそも小笠原さんが歌唱しながらのパフォーマンスがあんなにできることも知らんかったので、その時点で驚いたんだけども、その内容にさらに驚いた、那由多くんはてっきり観客のことなんか知らねー黙って歌を聴いていればいいみたいな感じかと思ったら、大きな声で、「もう縛られんな、こっからは好きに騒げ」などと叫んでくれるのである。そんな……ご慈悲を!?と動揺した(?)。自分の音楽を好きでついてきてる人のことが見えていて、その人達を受け止めライブに己を解放できる居場所を作り、そして先導する人なのだなあ、という那由多くんの像が、この時から私の中で結ばれ始めたように思う。

依然として那由多くんのことはよくわからないが(このよくわからなさは、ダブエスが終わる直前くらいまで引き摺っていたように思う)、よくわからないまま少しは気持ちが上向いた日だった。ちなみに私が礼音くんを(というかGYROAXIAを)好きになるのはこの約1年後、積読していた目醒めの王者を読んだ時なのだけど、会場でボイドラを聴いた時にこの5人の中なら礼音くんが好きかもなあ、お芝居と声が綺麗だなあ……と思っていたので、嗅覚がすごい。

そしてその後、きちんと出演者として告知されてTDCホールに立つGYROAXIAさんを見ることと、再びコールができるMANIFESTOをライブで見ることが、目標というほどではない、ただその日が来たらきっと記念碑になるだろうな、というものになった。その気持ちはGYROAXIAをちゃんと好きになるにつれてさらに大きくなるものだったけど、仮にすごく好きにならなかったとしても、きっと何かを思うし、私はその場所にいるんだろうな、と思っていた。

MANIFESTOってそういう、GYROAXIAを特別好きなわけじゃないけど小笠原さんのことが好きだった私がぐるぐると情報と感情に翻弄されていた日々に一緒にいた曲だった。ていうか元凶だった。だから他の曲とは全然違う。全然違うのに、物語を通してGYROAXIAを好きになるにつれて、GYROAXIAの曲として、旭那由多さんの言葉として、どんどんかけがえがなくなっていくんだよね。他の曲と同じになっていくし、「GYROAXIAを好きな私」にとっての、GYROAXIAの中での特別になっていく。でも昔の感傷も残っている、色々なものがぶつかり合っている曲になった。

ダブエス展のコメント動画で小笠原さんが言っていた、「那由多は王者なのではなく王者たろうとしている、暴君なのではなく暴君のように振舞っている」みたいなニュアンスの話(王者・暴君なわけではなく、振舞いをそのようにしようとしている、という内容)が印象深くて、以来那由多くんの紡ぐkingという言葉にも色々なことを考えるようになった。考えた上で、那由多くんのその言葉が、絶対的な宣言であり、指向性のある誓いでもあるその言葉が、より好きになった。kingとか運命とか(私は五稜結人さんと旭那由多さんと兄弟たちの運命論フェチです)のキーワードが散りばめられたザ・キャラクターコンテンツのバンドの代表曲!という感じの過剰さが、だからこそ時を重ねて彼らを知るにつれ大切になった。パフォーマンスの派手さやコロコロ表情を変えるところも好みだし、言葉遊びも那由多くんらしくて、歌詞の自信満々さがまさしく宣戦布告で勇気づけられて、何度でも原点を思い出せて、そして礼音くんの見せ場もあって嬉しい。今では全然、そういうものの方が大きいから、正直普段は昔の私の感傷などほぼ忘れている。

思い出したのは、再びコールができるMANIFESTOをようやく見られたから。私はブシロックに行かなかったので、ツアーの初日が久しぶりのそれだった。TDCホールは去年行って、その時も色々思い出していたけれど(お披露目の時は真っ赤だった会場がみんなのメンカラでカラフルになっているのが、感慨深かった)

初日、幸いにも席がよくて(私のeplusのアカウントって生きてたんだ……という感動と安心がかなりあった)ど真ん中のよく見えるところだったのだけど、絶対MANIFESTOはやるだろうと思っていたし、那由多くんがこの曲で声出せるの久しぶりだのなんだの喋ってる時点で絶対にMANIFESTOだとわかったからこんなところで見てしまうのかと気が気ではなかった。気が気ではない中礼音くんが呼ばれて真ん中に躍り出てきて、堂々とイントロを弾いている、そのすぐ後ろに涼さんと賢汰さんがいて、ステージの真ん中のドラムセットにいる深幸さんの下で那由多くんが悠然と立っている、4人に任せたとでも言いたげにいい意味で力の抜けた様子でただ立って聴いて待っている那由多くんが竿の3人の隙間から見えて、その光景があんまり綺麗でかっこよかったので、時間が止まったかと思ったし、あ、これが答え合わせなんだ、と思った。私のこの3年半の答え合わせ……

お披露目の時に、真一さんが、緊張してたけどステージで仁の那由多の背中を見て大丈夫だと思った、というようなエピソードがあったはずなんだけど(出典当たれず、すみません)、私はその話が大好きで、その、同じ曲で、竿隊が前に出て、あの礼音くんが真ん中のお立ち台に那由多に言われて立って、那由多はなんもしないで後ろで見てる!!というのが、あまりにも衝撃で、でも、本当に嬉しかった。知らんコンテンツのAGFのステージに急に呼ばれてる時から見てきた小笠原さんを好きな私の勝手な感傷が実を結ぶ場所で、そういうの全然関係なく、ただGYROAXIAを好きな私にとって、あの日心を惹かれた礼音くんを好きになった私にとって、とても嬉しくて喜ばしくて新しくてきらきらしたものを見ることができて、それしか言えないけどすごくすごく嬉しかった。こんな場所に来れるなんて、と思ったし、でもこんな、満たされる景色を見ても全然ゴールした気にもならずこれからもずっと見ていたいと当たり前に思う人達を好きになれて、幸せだなと思う。

イントロでおかしくなってしまったのでその後ずっと泣いてたし記憶ないしでも楽しいから完全にめちゃくちゃだったけど、本当に、思い出深いライブで思い出深い1曲になった。全てが完璧に収束した。そんな気分。これからも、続くけど……。それまでで1番遠くで見ていたあの日の答え合わせができた日に、それまでで1番近くで見ていたのも変な話だった。意外と運命力が強いのかもしれないと自分に対して思った。

 

GYROAXIAはともかく、那由多くんのことを大好きになるまでには年単位のかなりの時間を要したのだけど、大好きになれて、素敵な景色を見ることができて、強くなったあなたと一緒に夏を楽しめて、本当に嬉しいです。那由多くんの話やGYROAXIAの好きなところの話、リアルバンドのパフォーマンスに思ってきたことの話などなどをすると長くなりそうだったので間を端折って私の感傷だけ記録しておいたけど、その話もまたできたらいいな。

うた_202302

最近好きな歌のことを書きます。と半年前の私が書き残していたのでそのままアップロードします。最近の私は少し前にSNSで見かけた「その月ごとのプレイリストを作る」というのを素直に取り入れて月ごとのプレイリストを作ってるいるのだけど、月が変わったことに気づかないので今はまだ7月のプレイリストを更新し、聴いています。

 

「まるつけ」センチミリメンタル

まるつけ

まるつけ

  • センチミリメンタル
  • ロック
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

美化も悲観も絶対視もしていない、不安定さが誠実な、恋愛を前提としたパートナーシップの歌だなあと思って最近よく聴いています。

想うことが産む弱さを描くことが、激情を伴わないというか。ただ「そうだよね」と思う。そういうものだということは引き受けて、ふたりで上手くやれることに希望を持つ、というのが私の価値観からしてかなり「地に足がついている」というかんじ……聴きやすいし愛おしい気持ちになります。

あとこういうピアノが大好き。

 

「いまは僕の目を見て」Base Ball Bear

いまは僕の目を見て

いまは僕の目を見て

  • provided courtesy of iTunes

言葉に全能を見出すわけではないけど言葉を諦めたくなくて、言葉を諦めたくないから言葉を諦めて非言語コミュニケーションに全能を夢見るような言説が大嫌いで、そういう言説への逆恨みで音楽とセックスのことが嫌いじゃないのに大嫌いなんですけど(前置き)

そういう私にとってこの歌の「僕」の葛藤はものすごくいじらしいな、と感じられたし、「コミュニケーション」への愛情を感じて、なんだかとても良い。こぼれてしまうから隣に座ってみて、自分の心を裸で伝えることが怖くて、間違えないことばかり考えて多弁になって、でもそういう不自由があるから触れ合える歓びがあるのだとわかっている人の「いまは僕の目を見て」、とても説得力があると思います。

たったひとことずつなのに人間性が滲むBメロの「君」の台詞も素敵で、この歌を聴いた人の心に焼き付く「君」の像は「ほほう」とか「食べ物が美味しいじゃん」とか言う子であることで、「言葉」なのだなあ。というのが、いいよな……「僕」の方は僕の目を見てと言っている割に、という感じで。

言葉が全能だとは思わないけど諦めたくない、というよりは、「コミュニケーションに全能なんてありえないけど、ありえない中でも成立する交歓が愛おしい(ありえないからこそ、というよりは、ただ、そんな中でも交歓がありうるということが、それそのもののことがかけがえがなく嬉しい)」ということを、その自覚を、私は愛しているのかもしれないな、言語とか非言語とかじゃないのかも。書いてみると当たり前だ。

 

「好きだ!!!」≠ME

好きだ!!!

好きだ!!!

  • ≠ME
  • J-Pop
  • ¥255
  • provided courtesy of iTunes

「香水お揃いにしよう?」「いいよー!」←そんなコーレスある?

アイドルに真剣ではないアイドル音楽ラバーなので(?)もう全部こういうのでいい。と思っている。さすがに言いすぎました。

私は大好きを振り撒くきらきらした女の子の全能感と軽やかさ、みたいな明るいアイドルソングが大好きなので、大好き。魔法使いの代打は私~!←このパートがきらりちゃんなのもよすぎる、アイドルに真剣ではないのでパフォーマンスの印象でしかないんだけど、落合希来里さんってそういうものの象徴じゃないですか?

 

以上!

「ARGONAVIS the Live Stage2」感想

の東京公演を見てきました!

argo-ls.com

特にプレゼンとかではなく概ね時系列で記録を兼ねて思ったことを書いていくので、見た人がだよね~!て思ったり、見てないけど作品好きな人が何かの参考(?)にしていただけたら幸いです。

全体的な感想

好きなバンドがストーリーの主役の舞台、それも大好きな原作で、期待をして行ったけど、それ以上に楽しかった!

なんというか、いい舞台だなと思いました。そういう思考の概念、好き!と、そういう舞台の演出、脚本、好き!がたくさんあって……かなり文脈を把握してること前提って感じの作りで、原作とキャラを知らないと汲み取りきれない部分はあれど、そうでなければみんなに勧めたい群像劇(ARGONAVISって大体いつもそう)

音響が不安だったけど、私の貧弱な耳ではストレスを感じるようなこともなく見られました。ありがとうございました。

構成について

前回のナビステ同様、ライブの中に過去の回想が入れ子になっている感じの構成。

GYROAXIAがメジャーデビューをライブで報告するところから始まり、それに際して摩周から「覚悟」について問われたメンバー達が、結成直後の時期(=目醒めの王者)を振り返りながら、それぞれの覚悟を語ります。涼ちん以外……そもそも原作が目醒めなのでそれはそうなんだけど怖いな、改めて。間に関連する同じ時期のArgonavisのエピソードが挟まって、これはCYANのワンマンの前後かな。

ジャイロは現在のライブシーン・現在の舞台裏・目醒めの回想を行ったり来たりするので、1回目は追いつかなくて頭が割れるかと思ったけど、目醒めの話を知ってるのと、現在軸のライブシーンはほぼミニアルバムの曲なので、全然理解はできる。回想と現在を言葉や場面で繋いでいく時のみせ方も綺麗で、舞台だな~(浅い感想)と思っていた。深幸のところが本当に好き。後述します。

BGMを役者が演奏するスタイルも健在だったけど前回よりは控えめかな?竿は少なかった記憶。

ビジュアルについて

CYAN衣装×全員ハイトーンのArgonavisさん、ふわふわパステルカラーでかわいい!!

メンカラ衣装メンカラ頭(メンカラ頭?)でカラフルでかわいいArgonavisと、全員揃いの赤黒衣装で重厚感のあるGYROAXIA、お話の中で描かれる集団としての性質の違いみたいなものが見た目にそのまま出ていて、よかったな~~GYROAXIAのあの衣装もキャラのイラスト出た時から大好きなんだけど、ある種の抑圧感、強さと重さ、そして全員揃いなところが、とてもGYROAXIA的だなと思います。

ビジュアル撮影時の小笠原さんの髪色と真野さんの髪の長さを見てどうなるのかな~と思っていたけど、小笠原さんの髪色はめちゃくちゃ綺麗な白になっていたし真野さんの髪は美園らしく伸びていた。秋谷さんのメッシュ以外みんな地毛で、そんな寄せなくても私は問題を感じませんが、それはそれとして今までで1番綺麗な白髪の小笠原さんにはかなりぐっときた。今までは青と紫(だっけ?)でシルバーにしてたけど今回はピンクを入れたとか言ってた気がする、初日に。

内容について

出会い編

1番楽しみにして1番恐れていた冒頭……!

というのも、絶対に見たかったけど、里塚に自我を芽生えさせた原石の那由多くんの存在が、私にとってあまりにも神聖だったから、成人男性のからだがそれを演じるのを見るのが怖かったんだよね……(典型的な原作厨厄介オタクすぎてこれを言うたびに自己嫌悪で胃が痛い)(そもそも那由多より前にその成人男性が好きだったくせに)それは半ば冗談にしてもこのシーンが微妙だったら、がっかりしてしまうんだろうな、と思っていたので。

結論から言うとめちゃくちゃよかった〜!!里塚さんの激情が、これくらいのものであろうというスケール的なイメージ(?)は全然あったのだけど、じゃあそれが具体的にどういう感情表現に、言葉になるか、みたいなのは、これは役者さんが舞台上で演じるのを見ないと立体的に見えてこない部分だったな、と感嘆した。これくらい狂ってると思ってたはずだけど、原作読んで思った10倍くらい感情だったな、みたいな、矛盾……。自分のこれまでを「間違い」だと断言してしまう盲目さと若さと惨さ、音になると何倍も痛むなあ、とか(里塚自身は、運命に出会ったことが全てで、痛んでないと思うけど)。

印象的だったのは、那由多が意外と柔らかい、じゃないけど、言葉を揃えるなら結構感情的というか、表に色々出るんだなということだった。里塚に(橋本さんのアプローチに)世界観を合わせてるみたいな気もするし、荒削りの高校生の脆さかなあという気も、する。見比べられてないんだけど、前回のステとも脱退(解散?追放?)シーンの雰囲気が結構違くなかったかな……。全体的に人間っぽかったという印象でした。那由多のことをそう捉えるに足る情報が揃ってきたとも言えるのかな。それでいて最近ライブで見ていた那由多くんって開き直ったつよつよの姿という感じだったので、不安定な感じには懐かしさもありました。

ライブパートのREVOLUTIONの「なあ そうだろ?」で那由多くんが里塚の方をしっかりと振り返って目を合わせるの、すごくよかった。あの出会いと覚醒は偶然のことで意図していなくて、那由多くんが望んでもいないことだったのに、目を閉じたままでいさせなかった張本人たる那由多くんがそう問いかけることで、共犯者の色を帯びるというか。別にそうではないのに、目を開かせたかったみたいなニュアンスになること、その表現が成立することが重ねてきた信頼だなあと思う。那由多くんにとって事後的な判断としてそれがよかったことだったから、里塚に向かってそう言えるのだと、思う。ほんとに思いっきり振り返ってはっきりと見つめていたの、よかったな……。

私は、BURN IT UPを初めて聴いた時から革命歌じゃん!と言っているし、バンドが進む中での革命の歌はFreestyleだろうと思うけど、REVOLUTIONははじまりの歌という意味で、やっぱり「革命」だねえ……蓮くんを突き動かしたのもこの歌なわけで。

深幸加入編

ここのブロックのつくりかたが現在と過去の1つのパッケージとして1番好きだったかもしれません。覚悟を思い出す過程を音が彩っていて、美しかった……。

那由多に惚れたから来たんだとはじめっから言えばいいのに、モテを語ることが「かっこつけになると思っている」し「かっこつける必要があると思っている」の、深幸をそう思うに至らしめた様々なことを思ってきゅっとしてしまうのですが(深幸さんは総合点の人なので(?)モテが嘘って言いたいわけじゃなくて、那由多に惚れたの隠さなくていいよねーていう、個人的な感想)、それを加味しても「めちゃくちゃ調子のいいかなり変なやつ」であるのはそうだな、という再確認ができたのは舞台になったからでしたね(?)

礼音と那由多が、仲が良いわけではないけど一緒に過ごした時間でちゃんと「できあがってきてる」ことが新参の深幸の存在によって際立っていてかわいらしかった。出て行こうとする那由多を礼音が止めたり、「全員位置につけ」「だったら早く言えよ!」の間を省きまくった会話をしながら礼音が界川さんにフォロー入れないのとか……。対等な関係ではないけど、一方で所詮同い年の男の子で同級生で、そういう関係の質感みたいなのもあるよなあと実感した。そういえば深幸が最初の演奏した後の沈黙で、礼音が深幸とちょっと目を合わせてから口を開く回があったような気がしてかわいかった。なかったかもしれない(すみません)。

礼音が深幸に気遣ってて、懐き始めて、深幸はまだ涼にちょっと引いてて礼音は慣れてる……という3人のバランスがこの頃って感じでよかった。今は深幸と涼がかなりマブだもんね(マブ?)。呼び名変えるところもやめないでくださいね!もかわいいんだけど、深幸さんを「気にすることないですよ」って励ました礼音がそのあと怒涛の勢いで愚痴りだすのが、あ~甘えてるな~て感じで、深幸のお兄さんの顔の「よくあるんだ?」含め、私の思っていたこの2人という感じで嬉しくなりました。よくあるんだ?の裏で色々考えてんだろうな~という感じの演技……よかった……。

Dawnの力強いドラムが覚悟の説得力を担保するの、贅沢なエンタメすぎて気が遠くなる。以前秋谷さんと橋本さんだったかな?が、ライブパフォーマンスについて、演奏技術はどうしても自分のものだから、100%演技にすることはできない、キャラが隣にいて一緒に作ってる、みたいなお話をされてたのが印象的で覚えていた(結構前なので、今はまた違うかもと思います)のだけど、舞台作品の演出のひとつに演奏を使って、芝居の中でも音は本物だから説得力が上がるというのは反対側からの発想というか。

ナビステは元々ドラム多用舞台で前回もぶっちぎりでドラムの2人が演奏で忙しそうと思ったけれど、今回の担当部分の深幸、台詞交えつつのソロが他の子よりめちゃくちゃ多くて、そこにあるリソースを有効活用することをとにかく大事にするARGONAVIS!!と思って胸が熱くなりましたね。で台詞の方もすごいよかったし……。

余談ですが、涼さんの宇宙系発言から逃げる礼音くん、初日にお立ち台の裏にうずくまって隠れるのと(避難訓練?)、東京楽日マチネで機材の裏に逃げて横から上からひょこっと顔出すのがかわいかったです。

摩周に話をする礼音

礼音くんて摩周さんに話を聞いてもらったりするんですか!?マネージャー(社長)そういう距離感なんですか!?という、衝撃……大人に話を聞いてもらう礼音、いいな~素直だ……。

改めて思ったのは、礼音と那由多、2人とも手が出るタイプなんですね。礼音くん、ひとりっ子だし喧嘩のしかたも知らなそうなのにな……小学生の時悪ガキ殴ってこらしめたりしてたのかしら(「正義感」の話)。

那由多のあの様子は美園がどうとか本人の気質がどうってより「地雷だったからキレてる」ので、礼音がどう思うかは別として納得感が強いのだけど、だからこそ、里塚の厳しさがより見ていて刺さりました。多分原作より強めの印象になってるよね……?さらりと手土産を提案して、弱音を吐いた礼音にほぼ怒鳴る勢いでできなきゃ困るのだと言い、煽って後に引けなくさせるの、怖いよ~演奏の至らなさでなくコミュニケーション上の不幸な事故で引き起こされた事態でこれなのがさ。それが那由多と、GYROAXIAでやっていくということで、現実なので、悪いと言いたいわけじゃないがシンプルに怖いな~となった。厳しい先輩。那由多にも同じやり方するけどなんで里塚って(摩周も……)息するように挑発で人をコントロールしようとするんですかね……理解したうえで乗っちゃうやつしか周りにいないからでしょうが……。

里塚に詰められて挑発に乗って1人で追い込まれてる礼音を見て(何度も!って叫びながらギター弾く独白のシーン、めちゃくちゃよかったですね)、なんというか、この子ははじめからメンタルフィジカル桁外れのGYROAXIAのメンバーとして完全に適格だったわけではなく、元々資質はあったにせよこの時のことが通過儀礼のようなもので、この努力によって普通のギター小僧から一皮剥けたんだな~ということが伝わる演出になっていたなと思います。この時のがそれまでで最も大きな「そんなのできっこないけどやるしかない」で、これを乗り越えたことがその後の礎になっているのだろうと感じさせられるシーンだった。多分怒鳴る里塚が怖すぎてそう思った、私は。

そして、これは原作でも1番好きなシーンだけど、乗り越えるきっかけに仲間からの素朴な「好き」という肯定がある、そういう人間らしさと共に描かれる礼音のことが、好きって言ってあげられる涼くんが、GYROAXIAが那由多のことだけじゃなくてお互いにもそういう気持ちが芽生えるようなバンドになってきていることが、本当に愛おしく思います。思っていたのの何倍も、涼くんの好きだよが優しくて、そういう肯定を必要とする礼音くんの(当然の)弱さが、それで立ち上がれる強さが、まっすぐで素敵。まあ里塚と3人で話した時の涼くん、完全に里塚の共犯者(?)て感じだったし、いいように飴と鞭されてる感じもありますが。

ちなみにこの一連の流れで、「深幸はまだ自分のことで手一杯でフォローできなかった(したい気持ちはあった)」「礼音もそれをわかっている」のが生々しい距離で好きなんだけれど、特に描写なかったけどマジでずっと深幸がいないから不在からそれを感じられてよかったです。舞台だとなんか、「いないなー」ってより強く思うから……。

で、ライブシーンがExistenceなのが、何よりもよかった……!特定のシチュエーションやキャラを想定してない、普通の那由多の歌が、言葉が、礼音にそのままマッチするというのが、ものすごく私の好きな礼音と那由多の概念で。生き方の部分を「同じイメソンで表現できる」ところというか、双子というか(双子ではない)……。昨年の舞台で那由多がアカペラでGET MYSELFを歌っていて、選曲理由は「あの時期で完成しててもおかしくなくて、折角なので舞台のセトリにない曲を」ということだったらしいけど、それにしてもあそこまで礼音っぽい礼音楽曲スト曲を、那由多でああいう使い方してあそこまではまるのが、すごくいいな~と思ってて、それに近いぐっとくるところがありました。

「自分自身が信じ続ける限りその灯は消えない」を信じ抜けなかったことについて、ディスフェスの会場で那由多は結人を詰ったのだと思っているのだけど、礼音はそれを本能的に分かっているようなところがある、それが那由多と礼音が近くにいられる理由なんだろうなあと思います。だって、諦められないんだからさ(※涼)ということ。

兄弟

私の注意力集中力の限界がどうもこのシーンのあたりでくるようで、3日目までうまく内容を飲み込めてなかったんだけど、飲み込めた瞬間ひっくりかえってしまった。

確固たる覚悟を決めなければいけないと思っている弟に対して、里塚はどういう気持ちで自分の揺らぎを語ったのだろう、ということを考えていて。計算ずくで発破をかけたのかもしれない、まっすぐな視野の狭さに苛立ちに近いものを覚えたのかもしれない、とか色々考えたんだけど、見た時の印象を大切にするなら、あれはお互いに結構自然体だったのかなあと思っています。

航海の話を聴いて我が身を振り返った里塚が、素直な今の気持ちとして弱さを晒して相手の背中を押す、これを年下の肉親相手にできるのは、潔くてかっこいいなあと思う。し、航海がそういうどつぼにはまる性格なのを感覚的に理解してるんだなーって感じ……。で、航海は割とそのまま兄の言葉を受け取って、かなりそのまま自分の覚悟に変えてメンバーに話をしているんだよね。いい兄でいようとする賢汰と拗れた気持ちのある航海、から一歩進んで、大人になって対等に近付けた兄弟という感じがして、よかった。お互いに自分の人生に出会って精神的に自立して積み重ねてきたものなんだろうな。そもそもが、なんだかんだとても仲の良い兄弟だと思うので、このままより良い関係になれるといいな、なれそうだな、と思う素敵なシーンでした。

那由多と賢汰

すごかったですね~~~~……(感嘆)

目醒めの王者の読みが浅かったことがバレるなそろそろって感じなんだけど、感情と関係をすごくきちんと解釈して構築してるんだろうな……という気持ちになりました。ああそういうことだったのか~になったというか。

歌えるのか、と聞いてしまった里塚に「俺を疑うなら、お前がここにいる必要はねえ」と那由多が言うシーン、原作だと静かな激昂、拒絶、の描写が強かったけど、肉声でこの台詞を聴くと、人間の身体が帯びる柔らかさゆえか、背を向けてその言葉を絞り出す那由多くんを見て、文字で読む以上に「期待して・信じていたのに悲しい・残念」みたいなニュアンスも感じたんですよね。わからないけど。より正確に言うなら、その裏返しに「俺の歌を信じることがお前の存在意義だろう」があることをひしひしと感じる演技だった。この出来事のあとの那由多くんがそう確信しているのはよくわかるのだけど(それがWITHOUT MEでもあるんだと思うし)、自分を見つけた里塚に、バンドを捨てて自分を選ぶと言った里塚に、この頃からそういう期待があったんだ……という衝撃。というか、とにかくそう言ってくれる人を、安心して歌える場所をずっと探していたんだろうな、この小さい那由多は……と思い、たまらなくなった。

そして、そういう湿っぽさを帯びた後の「今まで以上に、だ!」と、それにはっとする那由多、よかったな、よかったね、那由多……(誰?)。原作でさらっと流れてるけど舞台で声を張り上げる・怒鳴る言い方になってる里塚の台詞が印象的なシーンが多かったなと思っているのだけど、この場面の重みのひとつをここに置くのもすごいよかった。ここでちゃんと風向きが変わって、感情の導線ができるというか。

那由多くんは、「馬鹿な男だ」に率直に色気がありすぎてどうしようかと思った(率直)。こういう色の乗せ方、本当に上手だよね、小笠原さん……。原作になかった「里塚……」もよかったです。2人の人間の、利害の一致が利害の一致のあまり人生かけた信頼になって、その中にちゃんと、情があるんだな、というのを、特に那由多の方から強く確信できてぐっときた……。二次元のこういう関係って結構「情」を毛嫌いするというか、そういうのじゃないから崇高みたいな信仰があるという偏見が私にあって(偏見です)、那由多がああいうキャラなので最初はこの2人もそうなんだと思ってたけど、全然そんなことないな!人間だな!と気付いてから楽しいので、確信できてよかった。

礼音くんが、涼さんのためじゃなくて自分のために頑張るけど、結果的に涼さんのためにもなるかも、という場面があったけど、なんか那由多も、結果的に里塚のためにもなるかも、ということの理解くらいはしてるのかもしれないな……と思いました。

「那由多は約束を守った。俺も必ず……。」の里塚もよくて。音楽を産み出すこと、世界に連れて行くこと、が少なくとも里塚の世界認識ではお互いにとって「約束」なんだなあ。なんかそういう、未来を眼差した誓いの介在する関係なんだなあ、それだけが絆の形とは思わないけど、でもやっぱりそれって絆だよね。

BLACK&WHITE

物語と楽曲の思わぬマッチングを目の当たりにすると嬉しくなってしまうんだけど、タイアップのブラホワが舞台の見せ場できて、歌詞がばっちりはまっていてめちゃくちゃ感動しました……。すごい。どこまで計算?自分に嘘をつかずに、譲れないものを掴み取るために……。

この2人の覚悟は「音楽に全てを捧げる」で、究極的にはいつもこの2人はその話しかしてない(だぶえすの終盤など)、蓮くんが結局それしかないことを那由多くんが本人よりわかってて、蓮くんが気付くまで、待ってるわけじゃないけど時に導いて、蓮くんが自分で気付いて追い付いてきた時に那由多くんが満足する(満足はしてない)、みたいな図、私がアルゴナビスを好きな所以だな~と思います。そういう一貫性、好きだ。初めて蓮くんに出会った頃にめちゃくちゃになってた那由多くんがそうやって構えられるようになったのも、蓮くんが堂々と並べるようになったのも、ライバルになれたんだなあって感じで嬉しい。

「一緒に歌え」かわいかったですね。急に幼稚園になったのかと思った。舞台上とは思えないガチダッシュで駆けつける蓮くんといいなんだかへんてこなシーンでしたが、このへんてこと、勢いのいい熱さと、じわじわと追いつめてくるような群像劇と、それでもちゃんとさわやかなところのバランス感覚も、アルゴナビスだなあと思っています。

Argonavisの話

まとめてになるけど、Argonavisさんって本当にいつも合意形成と意思決定ばっかりしてて最高!本当に変な主人公だ。GYROAXIAと対比して性格が丸くて仲が良いバンド……と見せかけて(それも事実なんだけど)、那由多と道を違えた結人の思想が、抱えたものがバラバラすぎる突き抜けた5人がバンドをする上でうまくはまっている、それぞれのエゴが強すぎるがゆえの「みんなで話し合って決める」というアイデンティティで、ぱっと見た印象よりもそれはずっと重い信念なんだよな、ということが、多すぎる話し合いとすれ違いの描写によって見て取れて、私はArgonavisが話し合いをしているたびに嬉しくなります。「みんなで話し合って決める」は、単に仲良しとか優しいそういうことではなくて、ひとつになれないけどやっていくための、孤独だったそれぞれにとってそういう居場所でお互いがあるための、またひとつの覚悟なのだ、と……。GYROAXIAはまあみんな那由多が大好きっていう集団なので(雑)(このへんが衣装の話ともつながる)。「心がひとつかどうか」みたいなところが表面的な印象と逆なのが面白いし、心がひとつじゃなくても心がひとつになれるというArgonavisさんの実践、本当に大好きです。

応援してくれていた人の昔の仲間がやってる小さい会社で一緒に夢を追いかけるArgonavisと、自分たちを見出して叩き上げた元マネージャーの元に戻るGYROAXIA、思ったより構図が熱めという感じだった。いいな。古澤さん、よかったな~~。ああいう役者さんとああいうキャラクターが映える作品だな、と思うし、古澤さんがいることで2.5次元っぽさからアルゴナビスの物語らしい群像劇っぽい方に印象が振れたのも、よかったと思う!あと書きそびれていたのでついでにここで書きますが、中学生の結人の不安定さとかわいさがとてもよかったので、役者さんってすごいなと思いました。年齢2倍どころじゃないのに……。

「大丈夫だよ」の件

一時ツイッター上で局地的な混乱になっていた前座ライブ前の深幸と礼音の練習シーン。原作からしてとても好きなところなんですが、深幸の台詞の細かい部分が原作と変わっていて、それがすごくいい深幸の解釈だな……と思ったので書きます。

ひとつは、細かい言い回しは忘れてしまったんだけど、「那由多に勝とうとしてきたんじゃないのか?」が「那由多に勝とうと頑張ってきたんじゃないのか?」みたいな、「頑張る」という言葉が入っていて。那由多が結構繰り返し、頑張っていることを評価されようとすんな、みたいなことを言っている作品の中で敢えて「頑張る」という言葉が足されるの、まあ音の響きとかもあると思うけど、深幸と礼音を表しているなと。もちろん2人とも求められているのは結果だとわかっていて、頑張りを評価されたいとも思ってなくて、ただ、その先にしか結果がないとわかっていて大事にしている2人の間での共通言語で、姿勢そのものへの深幸からの敬意なんだよね、と思います。

もうひとつが、その台詞を言った後、深幸がすれ違いざまに礼音の肩を叩きながら、優しく、でも確信めいた感じで「大丈夫だよ」って言うんだよね……。そうなんだ!?って思った(そうなんだとは)。なんか、作ってる方も、深幸が優しいことも、この2人がそういうところでつながってることも、わかってるんだなって、そうじゃなきゃ出ない言葉すぎて感動してしまった、そりゃわかってるに決まってるんだけど、それで合ってたんだなあ、という……。舞台の終わりに向けて熱が高まる流れの中に、深幸のああいう優しさと信頼があること、美しい。

そうやって吐き出して話し合って励まされて、そうして、勝手なことしたら怒られるかなって、いたずらっ子みたいなこと言い出す礼音が、好戦的に笑う2人が、大好きだな~!と改めて思いました。いいお芝居でした。

GYROAXIAの覚悟の話

メジャーデビューを前にした現在のGYROAXIAの覚悟、那由多を世界に連れて行くこと、GYROAXIAのドラムを誰にも譲らないこと、那由多に勝つこと、そのどれもを、結成譚である目醒めの王者を引用して重ね合わせることで語ることができる=みんなずっと変わらずそれだけを追いかけている、というのが、極めてGYROAXIAだな……と思います。一貫性がありすぎる。

語られた中で那由多くんだけが今も昔も怒りや憎しみを原動力としていて、これが映画への布石なんだろうなあ。音楽に全てを捧げる覚悟、が「あいつがやったんだから俺もやれる」じゃなくて、那由多くん自身のものになる、もしくはもう少しうまい形で内面化できる日が来るのかな、その時にもう一度これがGYROAXIAだと叫んでほしいし、蓮くんの隣に立てるといいよね、と安直に願ってしまいます。だって歌は無理だと言われた怒りで歌い続けられるくらい、無理だと言われたことがそんなに嫌なくらい、歌いたかったんだろう……。

最後のFreestyleについて。ツアー中は、全体のコンセプト的にも最近のパフォーマンス的にもここまで情感のある歌だったことはなかったと記憶しているのだけど、置き場所が変わるとこんなに変わるのか!という衝撃。めらめらと燃えていて、悲痛で、だけどちゃんと覚悟になっている。ちょっと過剰なくらいがこの舞台の中にあるにはいいよねえ。小笠原さんにこの表現の引き出しがあることが、好きだなあ……と改めて思っていました。あと、武器が欲しいと里塚が那由多に頼んだ時の「これぞジャイロアクシア、これぞ旭那由多」という言葉が、ラストシーンの那由多の叫びに繋がるの、原作でもぐっとくるけど、舞台になって時間軸が離れたことで、より効果的になっててよかった。旭那由多を世界に見せつけたい里塚と、自己の存在証明を続けたい那由多が、今日も嚙み合っているのだな。と。

 

早いもので明日(明日!)はついに映画の公開日ですね。完全新作の映像のアルゴナビス、アニメでいっぱい出てくるGYROAXIA、知らないものすぎてちょっとどうしたらいいかわからないですが、とても楽しみです。

足跡_神様について

旭那由多の歌声の部分を背負っている生身の人間がこの世界に存在する、という事実にだいたいいつも苛まれている。特に悪い意味ではなく。私は人間は神様にしないほうが無難かなというくらいの気持ちで生きています。小説版とかに顕著でしたが、那由多さんの神性や唯一性、絶対性(神を唯一とするなら同じことかもしれない)が強調されるたびに、これを生身の人間が背負うの?って怯えている。可哀想とかすごいとかじゃなくて大人達によるそのような冷静な判断がありうるのだなと、誇大広告にしない自信があるのだなと、それはコンテンツのプロデュースへの自信だったり、見つけた逸材に対する自信だったりするのだろうが、本当に嫌味ではなく感嘆の気持ちがある。とんでもない楽しくて思い切ったことを思いついたものだなあ。実際には楽曲を作る人達がいて、文脈や言葉や物語の補強があって、魅せ方だって人の手や恣意的なものが挟まるけど、最後にはその身ひとつだし、実際にそうじゃなくてもその身ひとつくらいの覚悟はないとできないことなんだろうと思って、それはつまり、どういうことなんだろう、というのが、ずっとわからないままです。楽しい。神様を作るって何だろう。演じるのではなく、演じながらも同時により本質的に「ならなければ」いけないような感覚、これはこの作品の妙なんでしょうか。人間らしさや生活の部分は物語が背負うから、声やステージの神性だけが研ぎ澄まされて差し出される、身体にまとわりついている、ような。私はあの人のことをよく知っている、これは、国民的タレントを毎日テレビで見て親しみを覚えるようなそういう錯覚的な知っているだけど、そういう人が、ステージの上でマイクの前で、なんだかこれまで生きててそんなに見たことがないようなカリスマと神性の描写の体現者となるというのが、まだうまく飲み込めていなくて、たくさん見たらわかるようになるのかなあ。MANIFESTOを初めて聴いた時にこの人は誰なんだろうなとわかり切ったことを不思議に思っていたけど、結局今もそこから進んでいないのかもしれない。それがお芝居で物語で世界を作ることなんだろうけど、たくさんの人の手の加わった「作品」ということなんだろうけど、文脈の読み込みと納得だけでは回収しきれないそこにあるもののことをずっと考えている。バンドとしては追いかけるという言い方をよくされている気がするけれど、同時に声帯は定義づける性質のものでもあると思うので、そのあわいが、何か特別なものだなあと思っていたりします。