「ウーユリーフの処方箋」感想【ネタバレ】

「ウーユリーフの処方箋」をプレイし終えました。

 

ウーユリーフの処方箋|公式サイト

 

近年稀に見る凄まじい読後感で、この気持ちを残しておきたいし、また同じくプレイした人と共有したいな、と思ったのでなんとか感想を文章にまとめてみようと思います。あとキャラ達がみんな愛しくて仕方がないので、これからも一緒にたくさん遊びたいので、一旦ここに旗を立てておきたい、という気持ちも。

 

【本編、特別ストーリー、特別ストーリー限定コンテンツ】のネタバレを含みます。また、あくまで個人の感想で、考えを誰かに押し付ける意図はありません。

 

私はこのゲームの醍醐味は読んでどう思ったか、そしてそこから何を考えるのかにあるし何ならそこ以外にないとすら思うので、未プレイ未読の方は是非!プレイしてみていただきたいです(というか、未プレイの方向けに説明を交えながら書く気力がないので、多分未プレイの人にとっては読みづらい文章です)

 

 

************

 

 

特ストまでプレイし終えて残った最初の感想はただただ「気持ち悪い」でした。とは言っても別に悪い意味ではなくて、こんなに気持ち悪いもの作れるのすごいな……という感嘆混じりの「気持ち悪い」です。まあのたうちまわりましたが。

なるべく整理して話したいので、気持ち悪かった点をいくつか挙げる→それに対する考察、セルフ反論という流れで書きます。

 

気持ち悪さ1:物語が治療のための「手段」だったこと

リリースから約1ヶ月、それなりにトレーラーハウス時空(1番混同のない表現だと思うので以降もそう呼びます)のみんなに、「みんなで外に出たい」と願うマツリに入れ込みながらプレイしていたので、このゲームが円果の治療のために作られた「手段としてのゲーム」であり「ゲームのためのゲーム」あるいは「物語のためのゲーム」でないことに虚しさを覚えました。もしかしたら単に「私向けではない」とか、「遊び場に大人が介入してきた」みたいな癇癪かもしれません。私の理解の範囲での「この世界から脱出する」のために動いていたゲームでは全くなかった、というのもきつかった。あと正直プレイしながら、ところどころ話の進行とか、感情の動きとかに「望むゴールに至るための強引さ、荒さ」を感じていてやや早足な印象もあったので、その印象に対して精緻に作り込まれたゲーム体験より円果の感情を動かすことが目的だから当然だな、と脱力した覚えもあります。まあプレイ時間2~4時間ですからね。

 

気持ち悪さ2:キャラクター達を薄っぺらくされたように感じたこと

これは私の推しがノゾミとカナタであることも多分にあると思いますが、トレーラーハウス時空を作中作に押し込まれたことで、しかもそれはプレイ時間2~4時間で大人達のアドリブを多く含んだ手段としてのゲームだったことで、あの時空の彼らを取るに足らないものに格下げされた、という印象を受けてしまいました。ノゾミとカナタは、円果から見た圭と乃万の印象を反映した、物語を進めるためのパーツであるということを明言されました。プレイヤーキャラクターの色が強く、それなりに重要な役目を背負っていたミト、乗り越える対象として細かく作り込まれたキリオなどとは違い、進行役でしかなかったノゾミとカナタは、こういう目的のゲームなので「あれ以上必要がないのであれ以上の設定はない」のかも、みたいなことを感覚的に思って、それがすごく寂しくなりました。逆にミトなんかは和歌の存在や和歌から円果への感情を前提にせずに語ることがすごく難しくなってしまったので、それはそれで気持ち悪いですが。マツリとミトが円果と和歌にすっかり回収されてしまうというか……最後のオフ会しようっていうの、美しい台詞だけどそういう意味で私達プレイヤーにとってものすごく残酷だなと思いました。でも特に和歌にとっては「そう」なんだよな。

 

気持ち悪さ3:それでも私が救われてしまったこと

1番はこれです。あれだけ救いのない血が出ないだけで精神的にも肉体的にもグロテスクな展開の先が本当に気持ちの良いハッピーエンドで、そのことに自分が安堵してしまったことが気持ち悪かった。今回の私達がプレイした「ウーユリーフの処方箋」でたまたま「現実」レイヤーとして描写されたラストレジェンド時空のみんな(本当にみんななんですよね、大人達も、円果の家も、もちろん5人も1人残らず前を向いてる。綺麗すぎてわざとだろうなと思う)が幸せになったことで、あんなに救いのないお話を見てきたのに、簡単に私が救われて、温かい気持ちになったことにとても違和感がありました。トレーラーハウス時空もラストレジェンド時空も現実から見たら虚構であることに変わりはないのに、「現実」とされた世界線が丸く収まったらめでたしと感じるの、不思議。

 

こんなところです。まああとは、シンプルな「みんなで幸せになってほしい」「みんなのことがもっと知りたい」という期待が果たされなかったことへの落胆かなあ。でも正直それはあれがスチームパンク乙女ゲームから脱出する「ウーユリーフの処方箋」だったとしても叶ってないと思うし、代わりの救済が予想外すぎて思考停止したみたいなところはある。

 

正直自分がこんな、トレーラーハウスのみんなへの情100%みたいな感想を抱くと思っておらず(普段の物語やキャラクターへの態度はもっとドライだし、それこそ「キャラクターは単なる舞台装置」って本気で思ってると思ってた。感情がそうじゃないと気づけたけど、今でも理屈ではそう思う)そのことに驚いたし、これは向き合うべきものだな、と思ったので今筆をとっています。まあとにかく、たくさん気持ち悪いことがあったのですが、落ち着いて考えてみるとこの感情達って、錯覚というか、意味のないものでは?という気持ちが膨れ上がりました。

 

例えば、トレーラーハウス時空を描いた「ウーユリーフの処方箋」が円果への処方箋、手段としてのゲームだったことについて。私は反射的に「これまでのことは無意味だったんだ」と思ってしまったのですが、円果にとって有意味であった以上、無意味なはずがないんですよね。思うに、円果向けであるか私たち向けであるかは0か1かではなくて1か10かの問題でしかない。汎用化を目指しているわけだから尚更。極端にターゲット層が狭いメッセージを発信していただけで普通のゲームと本質的な違いはない、と考えることはできると思います。

 

キャラクター達だって、ノゾミとカナタについて、「あれ以上必要がないのであれ以上の設定はない」のかも、と書きましたが、それも普段触れているフィクション作品と同じことだと思います。現実に存在しない以上「作られた部分しか存在しない」ことはどれだけ深く作り込まれたキャラクターにも言えるし、逆に描写で明示されていなくてもいくらでも裏を想像できるし広げられる、そのことに普段の私たちは違和感も抵抗もないからこれだけ二次創作が盛り上がるんだと思います。(実在する人間の持つ側面ですら、本人なり他者なりが観測して言語化して形を持たなければ存在しないのと同じかもしれないしなあ……とか。余談です)そして、上で少し触れてしまいましたがキャラクター達は物語に対して何か役割があるからわざわざそこに存在しているんですよね(舞台装置)。ノゾミとカナタが進行役だったことにも、別に不思議はない。よくあることです。

 

特定の対象に向けたメッセージを持つことも、マネタイズなど作品そのもの以外を目的とすることも、キャラクターに偶発的要素が入り込んでブレる(演者のアイデアとかパフォーマンスがキャラに逆輸入されるとかは、和歌のアドリブがミトになるのと近いのでは)ことも、割とありそうなことなのに、「人がそう作った」ことを露骨に描写されるとなんだか興ざめした気持ちになる、というのは面白いことだなあと思います。あと、思っていたのとレイヤーがひとつズレただけで、どちらにせよ虚構に変わりないのに、そうとわかった途端トレーラーハウス時空のキャラクターを愛でたり考えたり創作したりということに猛烈な違和感があるというのも、不思議。極論を言えば今私がプレイしている任意のゲームだって、誰かにとっての「ウーユリーフの処方箋」的なものかもしれないのに、です。「そうであると描写される」ことがこんなにも暴力的なのだなあと。

 

私も最初これまでと同じようには見れなくなるかも、と思いましたし、今でも正直ミトとマツリのことを和歌と円果抜きに考えることはできない(マツリ/円果が気づいてないだけでアバター使って会話してたようなもんじゃん、と思ってしまう。作り手の実態がそうだったところで、好きに解釈すればいいと思うんだけど、だって物語は読んだ瞬間読み手のものだし……これも感情が理屈に追いついていないところ)のですが、まあそれはそれで物語構造込みの味のある関係性として楽しんで、どちらの時空のみんなも楽しく愛せたらいいな~というのが今の気持ちです。

 

そう思えるようになったひとつの要因はカナタ役の小笠原さんの真キャストコメントでした。あれ、読んだ人びっくりしなかったですか……?私は気持ち悪さマックスでその気持ち悪さすら正確に言語化できていない時に読んでしまったので、とても驚きました。トレーラーハウス時空のみんなや、それに感情移入してきた自分の感情を「軽んじられた」と感じてしまった(感じて「しまった」という自覚はその時にもあったとは思う)タイミングで、そのことの象徴みたいなあの公式サイトの上で、物語全体について言及するキャストの方も多い中で、当たり前のようにカナタのことを語ってくださったことに救われると同時にハッとしました。話の構造とかはさておいて、カナタは存在するし、大事にしてもいいんだ、という視点をそこで手に入れて、そこからTwitterのファンの方々の感想や創作物、ミニゲームで会えるみんなに触れる中で気持ち悪さの底からここまで帰ってこれました。SSRのストーリーと友情ストーリー回収するまでやめれねえなと今は思ってますが、いつ終われますかね、これ(楽しい)

 

感じた違和感について、そこから逃れるために考えて「よく考えたら当たり前のことである」と気づくこと、本編内でしきりに触れられた「消費」やゲーム業界の動向と合わせて、物語やキャラクターとの自分の向き合い方を相対化することが、私にとってのこの作品の意味だったのかなあと思います。(消費についてもう少し考えた上でこの辺りもちゃんと整理したい)

読後の気持ち悪さや違和感こそが、普段私達が自然にやっていることの奇妙さや危うさ、身勝手さをラストレジェンド時空を挟むことで可視化したもので、そのことを自覚することと、「でも普段からやってるから気にするのやーめた!」が同時に訪れること、盛大な矛盾では……と思いつつ、そこに至るまでの過程に意味はあったかなと思うので、開き直って遊んでいこうと思います。